現在いまを見据える瞳
授業終了の合図が響き、にわかに騒がしくなった廊下を早足で歩く。雑多に混じる話し声と、向かう方向の一定しない流れをすり抜けながら、玲は階段へと足を急がせた。この時間帯と季節特有の気候の所為か風はぬるく、あちこちで開かれる昼食会のメインディッシュの――弁当の匂いを運んで通り過ぎていく。それに否応なく反応する胃に己の空腹感を実感させられ、包みを握っている手に軽く力を込めた。
ガラス越しに見える木々の、一週間ほど前に芽を出し始めた薄緑が、惜しげもなく世界を照らす光の中で揺れている。遅いようでかなり目まぐるしく変化していく時間の中で、ついこの間まで満開だと思っていた桜は既に全て散り、その花弁をいくらか地面に残すばかりとなっていた。独特の暗い紅色が、桜通りと名付けられた校庭の一片を彩っている。グラウンドに軽く敷かれた砂が太陽を反射して、やけに眩しい白を目の奥に焼き付けた。窓を隔てて視界に入る景色は、どこかぼんやりとしていて実感がない。記憶のない出来事の写真を見せられているような、現実。玲は、妙な感覚を振り払うために軽く息をつくと、眺めていた景色から視線を逸らし、いつの間にか動きを止めていた足を、目的地に辿り着くべく再び動かし始めた。
屋上へ続く道は、予想に反して人通りが少ない。階下のざわめきは遠く、足音がやけに響いた。何故だろう、と思考を巡らせる。そういえば、三年は明日模擬試験があると友人が言っていた。おそらく、狭いが空調のきく教室に篭っているのだろう。今は他人事のような言い方もできるが、それは紛れもなく来年の自分達の姿だ。面談のための進路調査書の提出も来週にせまってきている。そろそろ、内部進学について担当教師に相談してみようか。私立の進学校の生徒である以上、受験は避けて通れない道。とはいえ、出来るだけ苦労はしたくなかった。
階段を登りきり、やや古びたドアノブに手をかける。鼓膜を引っかくような甲高い音を立てて扉が開いた。と同時に、吹き込んでくる空気に瞼を閉じ、それにのって翻る制服の襟を押さえる。何とか堪えて足を踏み出せば、視界いっぱいに空が広がった。思い切り腕を天へと伸ばして、陽光を浴びる。遮るもののなくなった景色は、各々の主張と調和を繰り返しながら、玲の目に直接飛び込んできた。
「玲か? 遅かったな」
耳慣れた声が突然聞こえたことに驚き、そのまま斜め後ろへと視線をやる。声の主は、少々クセのある黒髪を風に遊ばせながら、直接背中をつけている床から起き上がったところだった。制服の上着のボタンは完全に全部外され、その下に着込んだシャツが見えている。どう見ても、昼休みが始まってからこの場所に来て寝転がっていたという風ではなかった。
「透流は早かったのね――また授業抜け出してきたの?」
玲は、心の内に広がっていく呆れを何とか出すまいという努力をしようとして、諦める。彼が休み時間になる前にこの場所へ来ていたという回数は、両手の指はおろか、足の指を加えて数えたとしてもきっと足りないだろう。それほどまでに、彼のこの行動日常茶飯事と化してしまっていた。彼――透流は、おう、と悪びれもせずに頷き、ついた汚れを払うためか一度紺の上着を脱ぐ。言外に含ませた忠告や視線に込めた非難も何処吹く風とかわされてしまえば、どうしようもない。腰を下ろすためにハンカチを取り出して床に敷きながら、玲は、できるだけ沢山の皮肉を込めて――いわゆる負け惜しみである――言葉を紡ぐことにした。とはいえ、彼がその皮肉をまともに受け取ることは、殆どと言っていいほどないのだが。
「そんなに授業サボってばかりいて、進路指導の時に先生に見放されるわよ。後悔しても知らないからね」
進路、と言われたままに透流は言葉を返す。案の定、あまり皮肉は効いていないようだ。それどころか、彼は、いまいち想像がつかないという面持ちで首を傾げていた。それどころか、まあなんとかなるだろ、とまるで他人事のように言葉を続ける。完全に脱力してものも言えないまま、玲は軽くスカートを調えて床の上に座った。気を取り直して、次に言うべき言葉を探す。どこまでものらりくらりと玲の言葉を退けている透流を、逃がすつもりなど無かった。
「気楽でいいわね。進路調査書、来週締め切りなのに」
それに書いたことが、担任との面談の内容に直結する。できるだけ早い段階で進路を決定しようとするが故に、玲は焦っていた。だからだろうか――と、彼へ向けた視線を外さないまま、頭の隅のほうで考え付く。透流の落ち着きように、どうも納得がいかなかった。その彼は、彼女の様子に対して気を配ろうという態度は微塵も無いまま、ああ、と思い出したように声を出す。
「適当に書いておけば面談ぐらいしのげるだろ」
どこかぼんやりとした視線に、玲の中で、怒りにも似た感情が立ち上った。先のことを考えていないわけではないのだろうが、軽視しし過ぎているように思える。続いて出る言葉は、自然と強い口調になった。
「透流、あなた――」
「お前、それで最近カリカリしてるのか?」
非難を遮りながらの指摘に、玲は目を丸くして言葉を詰まらせる。隠すようにしていたつもりなのだが、気づかれてしまっていたようだ。そんな彼女の様子を見て、透流はあたり、と嬉しそうに笑う。いらついているというひとの図星を指しておいて、それを笑うとはどういうことだろうか。眉根を寄せてそれを見返すと、悪い、と口先だけの謝罪を述べて、透流は苦笑交じりに続けた。
「そう焦るなって。今すぐに決めなくちゃ親に殺される、って訳でもないだろ」
「――でも」
不満をありありと滲ませた言葉は、軽く目の前に出された透流の手によってけん制された。一体なんだというのだろう。苛立ちを露にして向こう側の彼と視線を合わせれば、その手で軽く額を叩かれた。まさかの不意打ちに、玲は目をしばし瞬かせる。
「真面目に悩みすぎなんだよ、お前。たまには気楽に考えてみたらどうだ? 明日ばっかり見ていて今日足元すくわれたら、それこそ格好悪いぞ」
見透かされるような瞳に射抜かれて、硬直する。言葉を返すのも忘れて、玲は目線を自然と固定した。動いてしまえば、更に心を読まれてしまうのではないかという気さえしてくる。その様子を知ってか知らずか、透流はゆっくりと顔を上へと向け、その向こうに悠然と在る空を見つめていた。その眼差しは、二度と来ない今という時間を見据えているようで――いつも先のことを考えすぎる自分とは、在り方が違うのだと認識させられる。
「ま、人によって大切なものなんて変わってくるからな。お前が満足できれば、それでいいと思う。でも、今現在っていう時間を満喫するのも悪くないぞ」
言い終えて、透流は手を伸ばし、両肩を回し始めた。長時間固い床に寝転がっていたために痛くなったのだろう。時折音を立てる関節に声を上げながらも、その行動をやめることはなかった。最後に、大きく両腕を振り上げて伸びをする。先程よりもやや暖かくなった風が、二人の間を吹き抜けた。
「凪の奴、遅いな。先食べてようぜ。あいつの所為で喰いっぱぐれるのも嫌だしな」
一連の行動を無言のままで見ていた玲は、はっと我に返り、手元を見る。それまでの苛立ちもどこへやら、慌てて弁当の包みを解き始める玲をよそに、透流はいそいそと手を伸ばし、傍らに置いてあった袋を開けてパンを取り出し、一枚の紙を広げ、どこか面倒そうにそれを眺めだした。箱の蓋を開けながら軽く視線をやって覗き込んでみると、どうやら英語のプリントらしい。そのまま食事を始めた透流は、もう既にこちらの様子を気にしていないようだった。そういえば彼のクラスは次の時間に外国語が控えていたことを思い出し、納得する。焦る事を知らず、己を翻弄している事にも気づかずにマイペースでいられる彼に、憧れにも近い感情を抱いているのに気づく――と同時に、玲はそれを取り消した。自分まで彼のようになってしまったら、誰が彼を諌められようか。
なかなか姿を現さないもうひとりの友人を待ちながら、軽く焦げてしまった卵焼きを頬張る。次のチャイムが鳴るまでは、まだかなりの時間があった。視線を上へと向ければ、淡い色をした空は、今日もこの世界を優しく包んでいる。
透流の意見を聞き入れるのは何となく癪にさわった。それは、全く別の人間同士である以上仕方の無い事である。だけれども。
「たまには、力抜いてみようかな」
気楽に考えるのもいいかもしれない、と思う。この穏やかな景色を眺めながらゆっくりと食事を楽しむのは、確かに悪くない。
木々のざわめきに混じって、軽くドアの開く音が聞こえた。食事会のメンバーがもうひとり増えるのも、もうすぐだろう。
END
―――――――――――
あとがき
今度は脱稿からアップまで時間かからなかったですね。
まあ、出せるうちに出してしまえという事で。
色々試行錯誤してネタを出していく上で、
高校生設定にしたらやたらと青春っぽくなりました。
でも、この二人なら、こーいうことってあると思うんですよ。
お互いを友人として認めているだけに。
2006.4.18. 脱稿 2006.4.20. 加筆修正
Up date 2006.4.21.
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