黄金の刻、うつろう日々
木の葉が風に吹かれて踊る。陽の光の中、それに溶けそうな山吹色の渦が舞い上がり、彼方へと運ばれていくのを目で追いかけて、玲はそのまま視線を上へと向けた。昼下がりも大分過ぎた中庭と呼ばれる広場の一角。人気は殆どなく、敷地の外から聞こえてくる僅かな子どもの声と、この季節にしてはやけに強い北風だけが、この空間を満たしていた。
空は青く、遠い。何故か物悲しさを覚えて、玲は小さく息を吐き出した。いつの間にこんなに離れてしまったのだろうかと思いながら手を伸ばす。この間見上げた時にはそれほど離れていなかった様な気がするのだが――それは勘違いだったのだろうか。それとも、空の高さとは、短期間でこれ程大きく変わってしまうものなのだろうか。
暫しの間思考を巡らせて、あるひとつの結論に辿り着く。最後に空を見たのは、確か夏の休暇が始まる前の帰り道だった筈だ。それから実に四ヶ月も経過しているのだから、遠くに行き過ぎているように感じても仕方が無い。そう考える事にして、玲は腕をゆっくりとさげ、設えてあるベンチに静かに腰を下ろした。
「何をしているの?」
不意に、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。同じ年頃の者達よりも少々高いそれは、風の音にかき消される事も無く、耳に柔らかく響いて消える。軽く視線を下へ動かせば、首に鈴飾りを付けた青年が、声の印象そのままの表情を浮かべてこちらを見ていた。ちりちりと、空気の流れるままに、主の動くままに、鈴が歌う。放っておけばいつまでも続きそうなそれを手で制し、彼は口を開いた。
「何をしているの、玲。こんな寒い日に外で」
柔らかさを残したままの、しかしながら強い声音。口元は相変わらず微笑んでいるが、よく見れば、その瞳には微かな不安の色が揺れていた。またか、とひとり胸中で呟き、息をつく。彼は、彼女を極端なまでに心配することがよくあるのだ。これも、おそらくそれから来た言葉だろう。玲は、大丈夫と前置きをして、彼を安心させる為に笑ってみせた。
「心配しすぎよ、凪。私、身体は丈夫な方なんだから、これくらい問題無いわ」
「大丈夫、じゃないよ。最近忙しくてあまり休めてないって言っていただろう? もしも体調を崩したりしたら、それこそ大変じゃないか」
間髪入れず返答される。いつの間にか優しい笑みが消え、その顔は苛立ちと怒りに彩られていた。始終穏やかなまま表情を崩すことのない彼が、ここまで声を荒げるのも珍しい。
「いいかい、玲。以前と同じパターンで体調を崩したからといって、またいつも通り元気になるなんて保障は何処にも無いんだよ」
「そ、それは確かにそうかもしれないけど、でも」
反論は、肩に軽く置かれた手によって遮られた。視線を合わせるように腰をかがめ、こちらを見つめてくる――と思ったが、それはなく、俯いたままこちらに目を向けようとはしない。そう、向けようとしなかった。
「お願いだから、もう少し体調に気を配ってくれないかな。君まで彼女の様になってしまったら、僕は――」
先程までの勢いは何処へ行ったのか、告げる声は段々と弱々しくなり、最後には途切れてしまう。何かを恐れるような、悔やむようなその響き。玲は、どう接したら良いものかと様子を伺っていたが、その答えの出ないうちに、彼は気を取り直すように軽く首を横に振った。上げた顔には、いつもの『人あたりのいい』と称される微笑が浮かんでいる。
「ごめん。今の、忘れて。少し心配しすぎた」
きっぱりと言い切るその口調には、先程の弱い言動はかけらも見当たらない。何かを隠し、誤魔化そうとする時の彼の癖だった。彼は、いつも彼女が理解する前に語ることをやめてしまう。それが重要なことらしいのは、彼の態度を見れば直ぐに分かるのだが、与えられる情報が少な過ぎるため、玲はそれが何なのか、未だに理解できずにいた。顔をしかめ、彼が次の音を発するのを待って――
「で、結局君は何をしていたの?」
完全に話題を変えられてしまった。こうなったら、幾ら問い詰めようと凪は逃げ切ってしまう。玲は潔く追うことを諦め、彼に話しかけられるまでしていた事と感じていた事を反芻し、問いかけに答えるために口を開いた。
「空を見ていたの」
空を、と鸚鵡返しに彼が呟く。それに軽く頷いて、玲は話を続けた。
「随分、空が遠くなったなぁって」
改めて言葉にすると、再び寂しさのようなものが込み上げてくる。形の無い何かが胸の中でもやもやと動いているような感覚。これは何なんだろうと胸中で呟きながら、玲は想うままに音を紡いだ。
「空が変わっていくのって、凄く速いよね。空だけじゃない。季節も、街も、ひとも、皆変わっていくんだよね」
少しずつ、霧に形を与え始める。この寂寥感の正体を暴かない事には、紡ぐ言葉が終焉を迎えられない。永遠に答えを見つけられない。そんな焦燥に駆られて、玲は手探りのまま話し続けた。
「少しだけね、考えたの。高校に入って、卒業して、大学に進学して、周りの環境も変わったし、友達も少しずつ変わってきた。来年にはもう二十歳だし、大人にならなくちゃいけないよね。いつまでも子どもじゃいられない。そう思って、私も変わろうとしてきたはずなの。でも」
息を継ぐ。何を考えていたのか、形がはっきりと見えてきた。
「私は、ちゃんと変わっているのかなって。変化についていっているのかなって、思ったんだ」
そうだ。それがずっと言いたかったのだ。感じた寂しさは置いていかれる事への不安。今の自分自身に抱く、途方もなく大きな疑問。正体を見出せば、自然に言葉は終わっていた。ふうん、と相槌を打って、凪がその後を引き継ぐように口を開いた。
「玲は、変わりたいって思っているの?」
地面に視線を落として、首を横に振る。正直なところ、どうしたいのかは全く分からなかった。こんな、ひとによって答えが変わるような話をして、彼にどうして欲しいのかも。自分がどんな答えを求めているかさえ。ただ、急に話したくなってしまった。どうしようもなく。
「わからない。変わりたいとは思うけれど、変わりたくない部分もあるから」
らしくないよね、と呟いて空笑いをする。本当にらしくない。いつもの自分なら、この様なことで考え込んだりはしないのに。次第に笑い声も出なくなり、辺りには沈黙が広がる。それを見て、何を思ったのか――凪は視線を遠くへ向けながら、詩を読むように音を紡ぎ出した。鈴がそれに合わせてチリリと鳴る。強風は止み、代わりに、心地よい穏やかな風が吹き始めていた。
「全てがうつろい行く中で、ひとは変わることもできるし、変わらないでいることもできる。自分の意思で変えることが出来ずに、流されてしまうこともあるけれどね。だけど、どんな選択をするかはそのひと次第だから、その先がどうなろうとも、そこに『間違い』は無いと思う。だから、どちらを選ぶかは君の自由だ。でも」
風が完全に止む。まるでその一瞬を待っていたかのように、彼は一度口を閉ざし、こちらを振り向いて――破顔した。久方振りに見る、彼の裏表の無い笑顔。呆然としているこちらを気にした様子も無く、凪は更に言葉を続ける。
「できれば、君には、変わらないでいて欲しいな」
思考が、止まる。一瞬のうちに頭の中が真っ白になり、先程まで考えていたことがどこかへ飛んで行ってしまった。返す言葉が見出せない。今まで彼の言葉に、これ程動揺したことなど無かったのに。当の本人は、己が彼女に及ぼした影響を理解できぬまま、彼女の様子に首を傾げている。不意を、しかも無自覚の仕掛け人につかれてしまった玲は、頬が急に熱くなるのを感じて彼に背を向けた。今の顔を他の知り合いに見られでもしたら、まず間違いなく笑いものにされてしまう。この場から逃げるしか、方法はなかった。
「私、もう少し考えてみるね」
「え? ああ、うん――」
適当な言葉を述べ、立ち上がる。戸惑っているであろう彼の姿を見ないまま、顔の火照りを冷まそうと歩き出した。一度、軽く頬を叩く。何やら妙な気恥ずかしさは感じたものの、不思議と、胸の痞えが取れたような心地がしていた。
足を止め、空を見上げる。
風はまた気まぐれに吹き続け、空は昼から夕へとその色を変えていく。四季は終わりの季節を目指して進み、時は明日へと刻まれる。振り返らずとも、凪が先程の場所から離れたことが、遠ざかる鈴の音で分かった。ここに、止まっているものは無い。
止まっては、いられない。
昼と夕を繋ぐ黄金の空の様な現在をどうやって生きていくか、それは誰かに決めてもらうものではない。彼の言うように、自分自身の意思で、この手が、選ぶのだから。
そう言い聞かせ――玲は、とりあえず前へと歩き出した。
END
―――――――――――
あとがき
大分前からあげるかもしれませんと言ってて、ようやくあげました。
昨年、授業の課題として提出したものです。
登場人物は『夢語り』と同一ですが、時間がやや経過しています。
それと、某現代ものシリーズへのキャラ転用が決定したため、
若干凪の口調が異なります。ご了承ください。
風味としては、想い自覚直前……?
2005.11.1.脱稿
Up date 2006.4.6.
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